隣の花子さん

ホラーゲーム・怪談が好きです。 でも自分がプレイするのは平和なゲームばかり… ゲームネタを中心に思ったことを書いていきます。

こんなゲームは嫌だ

 こんなゲームが出たらいいなぁ…というのはたくさんある。

 オープンワールドで、自由にキャラメイクできて(ただしゴリラっぽくない)、自由な職業につけて、なぜだか美男美女に囲まれて、冒険心も想像力も掻き立てられるような… あとできれば寝っ転がってしたいからスイッチとかで出してほしい…

 しかし、「こんなゲームは嫌」というのはなかなか考えたことがない。

 前述の逆を行くならば、オープンワールドじゃなくて(移動要素がない…サウンドノベルとか?)、キャラ固定で、オッサンや老婆に囲まれて、閉塞感半端ないような…

 ん??…かまいたちの夜かな??いやいやめちゃくちゃ好きなゲームだった。却下。

女の不機嫌

 しかたない、本当に月経の周期でホルモン濃度が上下し、少なからず精神状態に影響を与えるのだから。

 女はみんな不機嫌になりやすい日がある。個人差はあるが、25日~35日周期でやってくる。そして、しばらくすると憑き物が落ちたように機嫌がよくなる。

 

 それはある程度はしかたない。上記の通りだ。だが対処はできる。まず、自分で「これはホルモンのせいでイライラしているのだ」と自覚することだ。ある程度罪の意識が軽くなる。そして、数日たてば収まることも知っておけばなおベターだ。

 概して、この対処法は自分完結型であり、周囲の人間は振り回されるしかない。だが、必要以上に甘やかす必要はないし、必要以上に見下すこともない。動物だってホルモンバランスの乱れで不機嫌になるメスだっているだろう。食事や睡眠と同じようなものだ。

 「私おなかがすいちゃってかわいそうでしょ」でもないし、

 「眠くなるなんて、これだから女は」でもよくない。

 

 お腹すいたならちゃんとお金を払って食べればいい、眠くなるなら自分の家のベッドで寝ればいい。正解は、「機嫌が悪いときは、周囲にあたる前にさっと帰り、早く休む」かな。

見てる世界が変わるのは

 世界が変わる瞬間、とは、類いまれなる芸術を味わったり、宗教に触れたり、美しい人に出会ったりした場面でよく出る話題だ。

 自分を囲む世界がいっぺんに変わるわけではないから、つまり「自分の見てる世界」が変わるということだ。

 カーテンを引くように、がらりと見る世界が変わった瞬間に出くわしたことはない。

 でも、もう以前見ていたように世界を見れなくなったことを自覚した時、「ああ、私の見てる世界はもう変わったんだ」と実感する。

 

 私の場合、ありふれているが、子供を産む前の世界にはもう戻れない。

 子供を産んだ後は、世界のすべてが変わる。自分の見てる世界は、「我が子のいる世界」となり、子供の出てくる映画、物語、絵画、家族の風景、何もかもが我が子のフィルター無しでは考えられない。

 

 一般的に子供がいる世界、いない世界のどちらかがいいか、など答えは出ないし、選ぶ必要もない。もう子供がいない世界がどうだったかなんて覚えていないから、比べようもない。子供は大きな弱点だ。子供のことを突かれたら親は弱い。そして、自分の中から果てしなく湧き起こり、尽きることのない愛情にただ驚くばかりだ。

父という名の隣人

今週のお題「おとうさん」 

 

 父が現在の私の年齢の時、私が産まれた。

 母と離婚してからもしばらくの間、父は私たち母娘の住まいのすぐ近くに住まいを構えた。

 普段は母と姉と過ごし、たまに父のマンションに遊びに行くという、今考えれば奇妙な距離感だが、 「おとうさんは仕事が忙しいから別の家に住んでいるのよ」という母の言葉を、当時の私は寸分疑わなかった。無邪気なものだ。

 ただ、(巧妙に隠されていただけかもしれないが)今思い返してみても父と母の間に険悪なものを感じたことは一度もなかった。健全なる精神状態で育てられたことは両親に感謝している。

 当時の父のヤンチャぶりは、その後婚姻を複数回繰り返していることからも想像に難くない。一度、突然家に遊びに行った時、父がバスローブ姿で登場したことがある。朧げだが布団も敷きっぱなしだった気も。もしかしたら急いで帰した女性がいたのかもしれない。

 その時のことを思い出すと、笑いとともにくすぐったい胸の痛みが込み上げてくる。父の気持ちを思うと、気が気でなかっただろう。

 

 久々に父に連絡してみようか。「あの時、女の人連れ込んでたの?」と。

 還暦を過ぎた今でも娘の前ではカッコつけたいあの父は、傷つくだろうか。それとも「そうなんだよ、黙ってても女が押しかけてきて困ったんだよ」とおどけるだろうか。

 そんな父の親心を、ようやく慮るようになった私は、今、母親になった。娘は夫にとても無邪気に懐いている。いじけたり親心をくすぐって気を引こうとするところも、私に似ている。願わくば、私がそうだったように、親は自分の物語の中で、絶対的な味方であることを信じていて欲しい。お父さんが、私にそう信じさせてくれていたように。

口は災いの門

 私は聖人君主ではないため、ズルもするし、易きに流れるし、保身もする。そして悪口も言う。

 だが後悔していることがある。立場の強い側にいるときに、立場の弱い者の愚痴を言うべきではない。そしてその場に当人が偶然居合わせてしまったのだから最悪だ。弁明ならいくつか思いつくが、やはり言うべきではなかった。

 

 傷ついた心は数日でよくなる。大きな失敗も大抵は時が経てば忘れる。しかし「どうせ私はこんな人間だし…」という言い訳をしながら、失われていった自尊心は戻らない。再発防止を決意したところで、もう一度口から出てしまった言葉は撤回できないのだ。こういった不可逆的な出来事で人生は構成されていく。それは縁や運命ではなく、インシデントの積み重ねだ。

気持ちのいい月曜日は自分の力だけでは迎えられない

 土曜日の夜に船上の豪華パーティーに参加しようが、ひねもすハンモックの上で過ごそうが、日曜日に休日出勤をしようが、等しく月曜日はやってくる。

 今日も月曜日がやってきた。のっけから船上の豪華パーティーなどと妄想している時点でお察しだが、もちろん私の土日は平凡だった。あえて言うなら休日出勤はした。

 

 月曜日の気分は特別だ。ルーチンワークが週の始まりに集中している仕事の人なら気が重いかもしれない。よしがんばるぞ!と気合が入っているかもしれない。

 基本的に、月曜日に気合が入るか、入らないかは周囲の環境に依存している気がする。

 期待され、あるいは仕事に一定以上の評価が伴う場合は、ポジティブな気分で月曜日に突入できる。

 職場あるいは家庭において、罵倒こそされ感謝も尊敬もされなければ、やさぐれて当然である。人間は社会的な生物なのだから。

 

 私は現在いわゆる中間管理職であり、リーダーシップを発揮する実力も予定もないが、相応に年功序列が適応されている職場ではあるので、年齢を重ねるうちに上司と呼ばれる機会は増えていくだろう。

 そうなったら、若者たちの月曜日のやる気をそがないために、特に週末にかけては彼らへの評価と感謝を忘れないようにしたい。

 5日後に平凡な週末を平和に迎えるために、とても大切なことだ。ちなみに、「平凡な週末」は私の最も好きな時間のひとつだ。

ホラーゲームを平気でプレイできるか

 ホラーゲームの恐怖を煽るシステムは様々だ。

 そこに何か存在するのではないかと想像をかきたてる暗がり。

 突然の怪物の出現は、原始的な方法で、「襲われる(殺される)のではないか」という恐怖を生み出す。

 かつ助けが来ない状況、逃げられない状況がそろっていることがほとんどである。

 鋭い牙も爪も持たず、夜目も効かない私たち人間が、こういった恐怖におびえるのは至極自然なことのように感じる。

 

 恐怖は偏桃体という脳の一部分が担っているらしい。ビルの高層階を命綱無しで綱渡りできたり、猛スピードでサーキットを回るカーレーサーなどは、この偏桃体という部分の機能が常人のそれを超えてたりするのだろうか。

 そして、ホラーゲームを全く怖がらずにプレイできる人もそうなのだろうか。いや本当は怖いのを我慢しているのかもしれないけど。

 

 少なくとも自分の偏桃体は、ゲーム制作者の意図通りに暗闇を怖がり、怪物の出現に悲鳴を上げ、脱出できない環境に絶望する。そしてたいてい最初の1時間ほどで匙を投げる。

 

 やはり自分は安全圏から上手な人のプレイ動画を視聴するのが性に合っている。

 と、久々に某ホラーゲーム実況者様の新規動画を拝見して痛感したのであった。